写真家の幡野広志さんが書いた『ぼくたちが選べなかったことを、選びなおすために。』を読みました。
「家族」とは何か…深く考えさせられる本でした。
目次
内容
著者は写真家の幡野広志さん。
2017年に多発性骨髄腫と診断されており、闘病中。
多発性骨髄腫は現代の医療では治すことのできないがんで、5年生存率は3割台か、それ以下。
著者は診断時に余命3年と宣告されている。
がんと宣告された後、自分ががんになったという事実たけがひとり歩きしていき、その対応に苦慮。
そこで、ブログで自分が多発性骨髄腫であることを公表した。
ブログには励ましや批判のメッセージなど、多くの反響があった。
その中にがん患者や、がん患者の家族から「ありがとう」と感謝の気持ちを伝えるメッセージも多数送られてきた。
著者はやがて彼らのメッセージの共通点に気づく。
応援のメッセージを送ってくる人たちの主語は「あなた」や「幡野さん」。
一方、感謝のメッセージの主語は「わたし」。
感謝のメッセージに見られる共通点から、「がん患者はみんな、自分の話を聞いてほしかったのだ。」と著者は察するようになる。
やがて著者の元にはがん患者以外にも、いじめを受けている人、あるいはその加害者、家庭内暴力やそのトラウマに苦しんでいる人、不倫をしている人、された人、離婚を考えている人、過去に大きな罪を犯してしまった人、そこからの社会復帰に苦しんでいる人、心や身体の病に苦しんでいる人、アルコール依存症に苦しんでいる人、自殺未遂経験者、自傷行為を繰り返している人、引きこもりの当事者やその家族、あるいは患者の前では言えない本音を告白してくる医療従事者などたくさんの人からメッセージが送られてくるようになった。
著者はそれらのメッセージに一つ一つ返信をし、治療がひと段落して歩けるようになったら彼らに会いに行こうと決める。
この本は著者が実際に彼らに会いに行き、話を聞いてできたもの。
本書の中では30人ほどインタビューをした方の中から、3人の女性の話を取り上げている。
一人目は高校3年生の時に卵巣がんになり、子宮と卵巣を全摘出した女性。
二人目は中学2年生の時に最愛の母親を乳がんで亡くした女性。
三人目はリストカットを繰り返し、25歳になったら自殺しようと決めている22歳の女性。
本書で取り上げられている3人の女性を含め、著者がインタビューをした人たちの話に共通するのは病と闘う苦しみではない。
苦しみの元凶は「家族」である。
著者は多発性骨髄腫と診断されたあとに自分の周りで起きた出来事や、彼らの話から「家族」について考え始める。
感想
この本を読んで、実はほっとしている自分がいます。
私が密かに心の中で思っていた「家族」に対する考え方が肯定的に書かれていたから。
私は、親の介護や老後の資金援助は一切したくないと思っています。
口に出したら、「親不孝者!」「冷たい!」「親にここまで育ててもらったくせに!」とか言われるから、一度も口に出したことはないけれど。
私は確かに親に育ててもらったけれど、実家を出て15年になります。
その間、ずっと別世帯です。
結婚して6年になるし、今では娘もいます。
私には私の家族ができました。
そこに、「育ててもらったんだから。」という理由だけで、長年別世帯の両親の介護や資金援助が乗せられるのは納得がいきません。
私たち世代は年金はほぼあてにならず、退職金などのまとまったお金が定年の際に入ってくる望みも薄いです。
それどころか、人生100年時代と煽って、政府やメディアは70歳、75歳まで働くことが普通なのだと今からせっせと私たちにすり込んでいます。
それでも、人によっては子どもを持つことが難しかったり、育てられても一人が限界という家庭も少なくない。
そんな世代の私が親の面倒を見ることになれば、そのしわ寄せは私の娘にいきます。
本来、私が守らなければいけない私の家族に。
両親は私たち子どもが見る限り、老後の資金準備を全くしているとは思えません。
(もう、年齢的に充分老後ですが…。)
「もしもの時は生活保護のお世話になる。税金を払っているんだから。」と口では言っていますが、心の中では「3人も子どもがいるんだし、なんとかしてくれるでしょ。」って思っている気がするのです。
家の中はものだらけで片付けるどころか更にため込む始末。
そうした姿からも、自分たちに介護や看護が必要になった時のことなど考えているようには思えない。
彼らは 子に頼る気なのです。
今、祖母(父の母親)に認知症のような症状が出始めて、彼らは対応に苦慮しています。
親の面倒を見るということが、どれほど大変なのかを身に染みて感じているはずなのに…。
こんなことを私が考えていると知ったら、親も兄弟も私を非難するでしょう。
だから、誰にも言っていません。
夫にも。
思っているだけで、口に出してはいけないと思っていました。
でも、「家族は選ぶことができる。」というこの本の著者の考えに触れて、少しすっきりしました。
著者は多発性骨髄腫という診断を受けた日以来、母親に会っていないそうです。
事細かく理由は書かれていないのですが、病名を母親に伝えた時、母親は少し黙った後に怒りの感情をあらわにして、席を立ち帰ったそうなのです。
それ以来、著者から母親にアクションを起こすことはなく。
これは私の想像ですが、きっと著者の母親は、多発性骨髄腫の診断を受けてショックを受ける著者と奥様に、著者のそれまでの生き方や、著者の奥様が著者の生活管理をしなかったことなどを責めたのではないかと思います。
著者は本書の中で、がん患者の家族によるこういった行為を否定的に見ているし、自分の死後に奥様や息子さんに親族からこうした行為が行われることを危惧して、家族や親せきをけん制しています。
がんという病は人間関係を壊す病気だと著者は言っています。
がん患者の家族は、心理状態ががん患者と同じ状態に陥りやすく、「第二の患者」である家族が患者本人を飛び越えて、治療の主人公になってしまうケースがあるそうなのです。
例えば、患者本人は延命治療を希望していなくても、本人の意思を無視して延命治療を医師に求めたり。
余命を意識し、患者本人は体が動くうちにやりたいことをやりつくそうと考えているのに、家族は「今はゆっくり休みなさい。」とそれを認めなかったり。
そうした家族の言動や行動から、家族で苦しめられているがん患者は少なくないそうです。
これを知って真っ先に思い浮かんだのは、自分が病にかかった時、ではなく、娘が病にかかった時のこと。
きっと私も娘に同じことを言ってしまうでしょう。
自分が悲しみたくないから、自分が後悔したくないから、娘に生きていて欲しいから。
そうした私のエゴで、娘の気持ちを無視した行動をとってしまうかもしれない。
でも、それはやめようと本書を読んで決めました。
この本を読んだのだから。
本を通して、余命宣告を受けている人の気持ちを知れたのだから。
前に『人魚の眠る家』という映画を観た時に、「娘が生きているけれど目を覚ますことはないという状態になったら自分はどうするか?」ということを考えたことがありました。
「たぶん私は主演の篠原涼子さんと同じ行動をとるだろう…。」とその時の私は考えていました。
でもこれは、結局自分のことしか考えていなかったんだなと反省しました。
私はこういうお涙頂戴系のドラマや映画が好きで、よく見ます。
でも、『ぼくたちが選べなかったことを、選びなおすために』を読んで、その行為は自分に酔っているだけなんだなと気づきました。
こういう系のドラマはいつだって残される(残された)家族目線です。
主人公は病で苦しむ患者本人で、あたかも患者本人の苦しみや頑張りにフォーカスしたように書いているけれど、その話を書いているのは患者本人ではない。
残される(残された)家族です。
そのことに本書を読んで気づかされました。
この本には「家族というかたち」「生き方」「死」「娘のこと」「自分のこと」「親のこと」、本当にたくさんのことを考えさせられました。
これからの、私の人生のバイブルになりそうです。
幡野広志さんの新著が昨日発売されました。
これも読んでみようと思います。
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